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棕櫚を綯う。

アルツハイマー型認知症と診断された父親の行動は、僕には理解し難いことばかりだ。

■哀れ、棕櫚

マンション一階にある自宅には庭があり、大きな楠や檀、桜、山桃、百日紅、楓、正体不明の柑橘類など何本か木が生えている。その中に3mほどの高さの棕櫚(しゅろ)が1本あるのだが、最近父はその樹皮をむしってきて、庭に出る階段に座り込んだまま日がな一日、縄を綯(な)い続けている。下の写真を見ても分かる通り、いかにもチクチクして痛そうな縄なのだがーー。

 

 

一体、この縄を何に使うのか。本人は、家庭菜園の野菜を支える杖を縛るなどの庭仕事で必要だというが、わざわざ棕櫚から縄を作らずとも、ひもや縄の類ならいくらでも家の中に転がっているはず。父は棕櫚の幹がどうも気になって仕方なかったらしい。コツコツ、コンコンと盛んに音がするので気になって庭を覗くと、父が斧(おの)や鉈(なた)、時にはカッターナイフを手に、樹皮剥がしに夢中になっていた。

 

この寒い季節。椰子の仲間なのだろうから、南方系の植物に違いない。下の写真を見ても、樹皮を剥がされた幹は寒風に晒され、いかにも寒そうに見える。その時は結局、途中でやめさせたのだが、「汚かったから切った」「木は大丈夫」と父は平然としていた。実際、調べてみると棕櫚は寒さにも結構強いらしいのだが、父がそれを知っていたとは思えない。

       

      

■行方不明事件

ひと月ほど前の夕方、父が行方不明になったと母から電話連絡が入った。父母の夕食用に宅配してもらっている弁当を、外の弁当置き場に取りに行くと言って玄関から出て行ったまま、戻って来ないというのだ。

 

父の行方不明事件は、その時が初めてではない。認知症の診断が出た昨年末から4回目。ついに「徘徊」が始まったのかと愕然とした。

 

前回はやはり弁当を取りに行くと言ってマンションの敷地の外に出てしまい、自分のいる場所が分からなくなり、挙げ句の果てに近所の老人介護施設の前で転んでしまった。施設の職員の方が気づいて自宅まで送り届けて下さった。

 

前々回は、ミカンを買いに行くと言って出かけて道で転んだ(その時はバナナを握りしめていたらしいが)。通りがかりの人が救急車を呼んでくれ、病院から迎えに来るよう連絡が入った。その前にも一度、いなくなっている。

 

「徘徊」といっても「弁当を取りに行く」「ミカンを買いに行く」という明確な目的があるから、厳密な意味では「徘徊」とは言えないかもしれない。とはいえ、日頃から注意が必要なことは当然だ。とはいえ、昼間、僕は仕事で外に出ていていないし、母はずっとベッドに寝たきりなので、外に出て行こうとする父を止めることは難しい。強行突破されると、どうしようもない。

 

またか。正直言ってうんざり。放っておきたいぐらいだが、そういうわけにもいかず、仕事を中断してとりあえず自宅のマンションに戻った。

 

すると、何ということか。父は、自宅の玄関前に段ボールを敷き、その上に座り込んで、棕櫚の樹皮で縄を綯っているではないか!

 

ひとまずほっとはしたのだが、「なんばしよるとや!!!」と声を荒らげて問いかけた。すると、「弁当屋さんが来るのを待っている」という返事。弁当屋さんが来ても見えるはずのない玄関先に座り込んで、縄を綯いながら。弁当屋さんはとっくに弁当を置いて、帰ってしまっていたというのに。隣近所にどう思われたことやら。

 

■長期記憶は凄い

父は農家に生まれた。幼少期に稲藁で縄を綯った経験があるらしい。たまたま庭の棕櫚の樹皮を見て、かつての記憶が蘇り、「あれは稲藁の代わりに使える」「何としてでも縄を綯うのだ」と決意させたのではないか。数分、いや数秒前に飲んだ薬のことも忘れている一方で、長期記憶恐るべしだ。

 

現在、一番上の写真程度の縄が完成しているのだが、庭作業に使っている形跡は一向にない。どうせだったら、タワシを作るとか、籠を編むとか、縄なんかよりも商品価値の高い工芸品を作ってネットで売れば、貧しい我が家の家計の足しになりそうなもんだが、父も僕もそこまで器用ではない。

 

それにしても、赤い樹肌を寒風に晒す庭の棕櫚が、哀れでならない。

 

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